東日本大震災 被災地支援チーム SAVE IWATE

2011年3月11日(金)14時46分頃、東日本大震災が発生しました。岩手県の三陸沿岸地域は甚大な被害を受けました。この災害に対し、民間レベルでできる支援活動に取り組みたいと考え、県内在住有志で「SAVE IWATE」を立ち上げました。

番屋日報1/10より転載します

 

被災から3日後連絡の取れない両親の安否を知るために、会社の男性二人と姉と私
4人で大槌に向いました。沿岸の状況はテレビで見ていて、車中では避難所にいる
かもしれない、死んでいるかもしれない、そんな思いで一杯でした。土坂峠を廻って
北小学校の所で通行止め、そこから見た街は戦争が起きたのかという惨状で同時に
私は覚悟を決めました。

その時津波警報が鳴って車を捨て40分歩いて着いた安渡の避難所、私が卒業した
小学校でしたが校庭にテントが何張もあって、何カ所かでたき火をしていました。
何か非現実的な光景でした、女性は炊き出しをしている、男性は火を熾していたり
呆然としていたり、同級生のお母さんがせわしなく働いていたり。
同級生だった男子は突っ立って動かない。ちょっと大丈夫と声を掛けると気付いて
くれて、よく来たと云ってくれました。

混乱の中、知り合いの方に逢えて両親は生きていると知らされ、泣けた。
あんな気持ちは初めてです。姉は涙ぐんでる、生死がわからない状況で生きていてくれて。
寒さは感じません、その校庭に両親が居た、駆けた、よく逃げたね、生きててよかったね、
精一杯そう云うと母は、なんであんたここにいるの、ときょとんと返事をしました。
姉と私が住む盛岡も大変な被害を受けたのだろうと私達が心配されていたんです。

体調が良くないと聞いていたから避難所の生活は無理だろうと、そこまでは判るのです、
それ以上の判断が付かない、連れて盛岡へとも至らない、私はどうしたら良いのかが
判らない。その時は遠野の母の実家、それしか浮かびませんでしたから。
一週間を遠野で、その後は姉宅へ移りました。
両親は体調こそ崩しませんでしたが大槌の日常生活を遮断されたから、何も手が付かない
ようでした。衣住を失い、番屋さんの支援物資で整えていったんですよ。

町の復興計画で土地買い上げが決まりました。私達にとっては決断の時。
何が最善なのかは判りませんが、カラオケを愉しむか番屋さんで話をする、それしかない、
あとは家に居るだけの両親、大槌での生活や多くの知り合いを失った両親を健康面でも
支えていく、色々な所に連れていってなるべくさみしい思いをさせないように、そう
心掛けています。
(70代女性 大槌町より 家族回答)

 

まとめ/文責  鈴木智太郎

Comments are closed.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。