東日本大震災 被災地支援チーム SAVE IWATE

2011年3月11日(金)14時46分頃、東日本大震災が発生しました。岩手県の三陸沿岸地域は甚大な被害を受けました。この災害に対し、民間レベルでできる支援活動に取り組みたいと考え、県内在住有志で「SAVE IWATE」を立ち上げました。

【大船渡市 三陸町】

唐丹付近で被災して翌朝、自宅に戻ると家は流されてました。
老人ホーム職員の妹は中学校体育館に安置されていました。
夫の職場は無人でしたので、妹が死にました、と書置きして
う回路を走り、両親の住む綾里へ。そして越喜来の安置所へ。

係の人から調べが終わるまで触ってはいけない、と言われてたから
泥だらけの体、そのままで両親に会わせてしまい、こんな姿でと母の
ショックは大きかったです。

その後、体を拭いて準備を尽くして送りました。

それからは妹の嫁ぎ先の家族の世話と炊き出しボランティア、仕事を
しながら感じたのは物資支援は一極集中、人の薄い所には情報も来ない。
このままでは、被災時にたくさんの人が泣き叫んで地獄だった越喜来は
立ち行かない、そう思って留まることにしました。

津波てんでんこは昔から、地元の年寄りが言ってました。
とにかく自分が逃げる、と教えられた、なんですけど、今回思った事は
陸前高田、大船渡の役所の人、消防団の人、若い人達が亡くなってますね。
しかし皆が普段から自分たちの防災を考えていればあれだけ、死なずに
済んだのです。

その場所で、避難するところは別なんですね。
その場所の指定避難所へと決めてしまうのはあいまいな事なんです。
そこへ向かう道はその時は危険だったりする、だからその人の居場所によって
安全な場所は別なんですね。

避難の時、人の世話にならないために自分はどうするか。
今、安全な場所はどこか、それを普段から考える。
それが、てんでんこではないか。

三陸町は綾里、越喜来、吉浜と地区があります、その吉浜は明治29年から浜に
家を建てていないんです。当時の新沼さんという村長さんの指導が今も守られて
いるんです、普通は別家分家が浜に増えて拡がっていくのに。
人の和があって、地域をみんなで守るんだという和があったから。100年以上ですよ。

金や利害があると浜の方に家が建ちます、そこを守るために防潮堤が出来る。
けど津波はそれを越えてくるんです、津波は水の塊がドンと来る、太平洋が寄って
来る。高い防潮堤で津波が見えないからわざわざ見に行って、流された人が沢山
いたんです。

津波が来るとは思わなかったって多くの人が言ったけれど、考えたら今度で3回目
だなと父は言ってました。生きているうちに最低2回は津波に遭う、そう考えて行動
する、次の津波は孫たちの時だ、とそう考えると恐ろしいものではありません。

吉浜の人達は津波を家から見ていたそうです。綾里、越喜来と同じ威力の津波を。
その威力は大体2キロで弱まります、その2キロを使用禁止にしてその外れに、一番奥に
3メートルの高さの道路を通すのです、それだけで津波の被害はまったく違うでしょう。
田圃は1年で復興できます、山で土を作っておいて津波のあとに持ってくればいい。
たった2キロの所は流されても再生できるハウスを建てる、海には軽トラで行けばいい。

人が亡くならずに済む準備は簡単なことなんです。
防潮堤は低く、懐を深く取ってそこに高さ3メートルの道路を持ってくる、そこまでの
2キロメートルの土地は寝かせておく、それだけなんです。

 

 
聞き取り日 12/6

まとめ/文責 鈴木智太郎

CIMG2948

Comments are closed.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。