東日本大震災 被災地支援チーム SAVE IWATE

2011年3月11日(金)14時46分頃、東日本大震災が発生しました。岩手県の三陸沿岸地域は甚大な被害を受けました。この災害に対し、民間レベルでできる支援活動に取り組みたいと考え、県内在住有志で「SAVE IWATE」を立ち上げました。

聞き取り報告  7月4日

宮古と山田で伺いました。
1. 私は職場、家内は自宅にいました。岸壁近くにある鮭の稚魚の世話の最中でした。
  遭った事のない揺れでしたから、ストーブを消して、内側の防潮堤が閉まると車で帰れなくなる
  から急ぎました。

  家の前では家内と隣の方が怯えていました。
  防災無線では3mの津波、と伝えていたけどカーラジオは南の方で6mを記録した、と聞いて
  堤防は2重だから街なかは大丈夫だろうけど避難はしよう、と毛布2枚と貴重品を乗せて国道
  を高所の避難所へ逃げました、翌朝には戻れるだろうけど。

  しばらくして、次から次から街の人達が高台へ歩いてきて、もう街はだめだから、と云われて私たちは
  信じられなかった。

  家のガス栓を閉めて、鍵をかけて、ゆっくり避難したんです。海に変わりはなくて避難しない人たちも
  けっこうおりました。隣りのご夫婦に、避難してください、と云ったら、ここまでは大丈夫だろうと笑ってました。
  次の日に見えない、という事でがっかりしました。

  避難所で、街が火事になってると聞いて。火のついた家が流れてきて、民家から山から焼けたようでした。
  消防団も手が付けられなくて見てるだけだったそうです、 高台の避難所近くまで火が来ました。

  早めに避難した人たちは助かってるみたいなんですけど、ここまで波は来ないんじゃないか、あと何か取りに
  戻った人たち、街なかで話をしていた人は聞くと亡くなってますね。
  あの日は寒かったから着物を取りに戻ったんでしょうね。

  この地区は避難したひと全員が野宿しないで、衣類も着替える事ができて、屋内で過ごせたから良かった。
  翌日街に戻ったんですけど言葉がなかったです。
  街並みがなくなってがれきの山だったんで、あれ家はどこに行ったんだろうと。
  店もないので避難先からの買い物も不便でした、堤防の上は怖くて歩けなかったから線路を行ったり来たり
  しました。隣り街までの買い物は遠かったです。

  仮設生活は今年いっぱいです、移転の話が進まないので隣り街の高台に移って住もうと思ってます。

2. 夕食の準備中の揺れで食器棚を押さえて、収まるのを待ちました。
  すぐ停電したからラジオを聴いたら、波の高さが3m、と云ってたんですよ、津波被害の予習はしてたんです、
  だから、来る、と。外は避難する人、浜に出て様子を見る人で100人は集まったんじゃないですか。
  声出して、みんなを高台に移しました。
  漁師は船を守るため沖に出ました、大なり小なり15隻だったか、入江で波をかわしたそうです、全員無事。

  今でも目に焼き付いているのは、引き潮のなかに人が手を挙げてるんですね、助けろって。
  どうしょうもないんです。 次の朝に捜索して9遺体収容して、未だにご遺体が見つからないのが5人です。
  沖に流されたんだろうと。
  この辺りだと、何日かは遺体はすぐ動かすことができたけど、検死が済むまで待たされるようになりました。

  ここの堤防は低いから波が入ってきて溜まって渦巻になって、そのスピードはとてもじゃなかった。
  集落で27軒が無事で、二晩ウチだけで30人を泊めたかなぁ、皆集落の人。流された人はなにも無いわけ
  です、残ったほうが食料を持ち寄って炊き出ししました。

  もう毎日のように夕方に近所と決まって酒盛りをしていたから、皆はすぐ協力しあいましたよ。

  2日目に山道を伝って自衛隊員の方が徒歩でやって来てくれました、最初は5人位だったかなぁ。
  1週間くらいで旭川からも来たんですね、医療チームとか物資チームとか。燃料も運んでくれました。
  支援が進みました、混乱もあって、ポリタンクの飲料水をヘリコプターが降ろす場所を間違ったらしくて
  海に落としたらしいですよ。

  よその地域、人から感心されたのは、この集落はまとまりが良かったのです。それが強みです。
  そして皆様の支援でなんとか今のように。

       聞き取り日 7月4日
                       まとめ/文責 鈴木智太郎

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