東日本大震災 被災地支援チーム SAVE IWATE

2011年3月11日(金)14時46分頃、東日本大震災が発生しました。岩手県の三陸沿岸地域は甚大な被害を受けました。この災害に対し、民間レベルでできる支援活動に取り組みたいと考え、県内在住有志で「SAVE IWATE」を立ち上げました。

配送報告@釜石・大槌

釜石・大槌5カ所に配送を行いました。

①まずは産直への配送です。
この産直はスタッフ3名で運営しています。そのスタッフの方にお話を伺いました。
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私の自宅は震災で室内に10箇所の亀裂が生じました。
壁は板を打ち付けているので継ぎ目が浮き上がり、貼ったクロスもダメになっています。
風呂場のタイルが割れるなどしましたが自分で張り替えて使っています。
基礎は数えてみると6箇所の亀裂があり、こればかりは自力で修理できません。
そのような状態でも行政の認定は「一部損壊」です。
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スタッフの一人は古民家を改装して住んでいたのですが、天井の太い梁が落ちたそうです。
もう一人は仮設住まいです、すべて流されたのです。

ここでは自宅が残っても出来る範囲の補修をして、かろうじて住める状態にして住んでいる、
そのような家がたくさんある、とのことでした。

②次は仮設住宅へ伺いました。
ここの仮設は高齢者の一人住まいが多く、心と体にダメージを受けた方を複数抱えているため、今後心配な状況です。

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・ケアの人は来ていますが、もう一歩踏み込みが足りない気がしている。
・自治体に指導のプロがいないのではないか。つまり、なにをしたらいいのか分からないのだろう。
・支援体制にちぐはぐな感じを覚える。
・沿岸各地を見てまわると、ここの仮設はまだ恵まれているほうで、ある仮設は悲惨だ。単独仮設は大変だと思う。
・そして皆新しい居住地を探している。内陸避難したひとはまだ裕福だと思う。
・自治体の計画は現実性に乏しく、あてにならない。だから住民の要望と噛み合っておらず、遅きに失している。
・このままでは地域が、人と人のつながりが、壊滅してしまうだろう。
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③次は、在宅の方へ配送しました。

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私はあの日、職場の窓から襲ってくる大津波をまともに見た。
もう逃げた逃げた、崖を両手両足で這い上がって逃げた。
今でも海岸を歩くとその時の恐怖心がよみがえる。それほどのショックだった。
私の自宅は津波の勢いが衰えて進みが止んだすぐの場所にあり、直接の被害はなかったけど、その後の生活が大変だった。
家が残ったから支援物資が廻ってこない。
電気と水道に不自由し、ガスはプロパンが使えたから夕飯は日が沈む前に済ませた。
私達の家から買い物に出かけると2〜3時間かかり、欲しいものに行列すると目の前で売り切れを伝えられたりした。
家が残ったため、地区の避難所の洗濯機は使わせてもらえない。1ヶ月はそんな生活だった。

家を流され避難所暮らしになった人の一部から、家のある人へ対しての差別が始まった。
避難所のみなさんで分けてもらおうと、私達は川の水で米を洗い、ガス炊飯でおにぎりをこしらえた。
それを手渡すと、あとで全部捨てられていたことがわかった。
自衛隊の炊き出しの人たちや役所からも強く注意されたようですが、支援は避難所のひとだけ、という考え方は直らなかったようだ。
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家が流された人だけが被災者ではないでしょう、とその方はおっしゃいました。
「なのに、今でも家のある人には炊き出しやイベントの連絡はありません。
このまま心のしこりが集落で残ってしまうのでしょうか。
残った家の補修や井戸のボーリングなどで、けっこうお金が掛かっているのが実のところです。
明るい兆しはまだ見えてこない気持ちでいます。」
もちろん、このお話はあくまで個人の方の体験に基づいたお話です。
各地域、すべての人々の間にこのようなすれ違いが生まれたとは思いませんが、
こういったことがおきたのも、また事実のようです。

④次は幼稚園への配送です。
幼稚園の先生にお話を伺いました。

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津波の翌々日になって園に戻ると、敷地に御遺体が6体そのままの状態でした。
その後復旧工事が進み、壊れた床暖房はドイツの教会の支援で使えるようになりました。
おかげで4月の始業式を迎えることが出来、5月下旬には園庭も元に戻りました。

あの日は近くの集会所に園児、先生あわせて17名が避難しました。
すぐに消防団の方がみえて山に避難するように云われ、移動しました。
そこにある一軒家の方の好意でみんなで食事をとる事もできました。
やがて山火事が起こり、近づいてくるというので山を下り近所の道場に避難場所を移したのです。
5日後に残った最後の園児さんを親御さんが迎えにいらっしゃいました。

あの地震の後、車で迎えに来た親御さんが同乗の祖母さんの強い言葉に急いでお子さんを乗せ、園をあとにしましたが、皆さん亡くなりました。親御さんのお腹の赤ちゃんも一緒に。

夏は虫がすごかったです。先生達がうちわでハエをはらいながら、園児に食事させました。
街が落ち着いてきてから、園児たちの間で「津波ごっこ」が流行りました。
ブロックを家に見立てて、お人形をまわりに置いて自分が体当たりするのです。
「死んだごっこ」というのもありました。
しかし私たちは園児の遊びのなかに入らず、津波、のひとことも一切云いませんでした。聞き流す感じで。

遊びはその後「入院退院ごっこ」「仮設ごっこ」と変化していきました。
今は、地震が来たら園で飼っている小動物をいっしょに仮設に連れて行く、と云ってくれる園児もいます。
子どもたちの気持ちは確実に変わり、明るくやさしくなっています。
思えば園児と楽しく笑って1年を過ごしました。
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⑤最後に、パン屋さんを営まれていた方のお話です。

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東京に長く住み、趣味でパンやケーキ作りを楽しみ、教室を開ける免許も取りました。
主人の実家のこの地に移住してからも手作りを続けて、近所の方にお分けしたり。
そのうちに口コミで人が集まってくれるようになって、予約販売の店舗に発展しました。

津波で家とレシピを失い、しばらくの間気力を失ったままの生活でした。
立ち直ったきっかけは、帰省した息子から赤いカーネーションをプレゼントされたから。
少しずつケーキ作りを再開し、食べてもらった相手の感謝に心が動いたのです。
おいしいパンとケーキで皆の役に立ちたい、そう思い今に続いています。

この仮設商店街への出店も皆さんとのつながりで実現しました。
材料はこだわって仕入れていますから高値という人もいますが、美味しさには換えられません。
そして自分の味を守り自信を持ってお客さんに味わってもらうには、店舗は小さいままでいいと考えています。
そして皆さんのおいしいの言葉が店舗を続けている原動力です。

この地域では全壊と家の残った人との間に苦痛があったけど、
あの時、食べ物を分かち合って近所の人たちとの絆が出来あがったのは、津波のおかげだとも云えるでしょう。
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聞き取り日 3/8     まとめ・文責:鈴木智太郎

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