東日本大震災 被災地支援チーム SAVE IWATE

2011年3月11日(金)14時46分頃、東日本大震災が発生しました。岩手県の三陸沿岸地域は甚大な被害を受けました。この災害に対し、民間レベルでできる支援活動に取り組みたいと考え、県内在住有志で「SAVE IWATE」を立ち上げました。

月別アーカイブ: 3月 2012

【緊急!】子供おむつ【募集!】

番長の漆戸です。

ほンの3カ月ほど前には「これで半年は行けるッ!」と思っていた子供おむつですが、気が付いたらもはやテープ留めタイプ・Mサイズしか無くなっております。
被災者の皆さまから『他のサイズは無いの?』『パンツタイプは無いの?』と聞かれる日々です。

子供おむつの全サイズ、テープ、パンツタイプをそれぞれ募集いたします。
よろしくお願いいたします。

嬉しい話in宮古

ご存知の方も多いことと思いますが、SAVE IWATEにはご自身被災されながら一緒に活動している仲間が何人もいます。
盛岡で活動に参加している方もいれば沿岸部で活動に参加している方もいます。

そんな中の一人、今まで物資支援の届かなかった世帯を掘り起こし、宮古市で精力的に支援物資の配布を行っている方がいます。

私たちは昨年、このNさんからの要請を受けて粉ミルクと子供用オムツをNさん宅にお届けしました。
これはNさんのお知り合いで、旦那さんとお子さんと3人で暮らしてらっしゃる、いわゆる在宅避難者のAさんのための要請でした。

Nさんは、Aさんの旦那さんが震災後無職となり、毎日義援金を使ってパチスロに通っているという話しを聞き、あまりにもAさんがいたたまれなくなって支援物資をお届けすることを考えたそうです。

ここまでは地元の人同士では良くある話しかもしれません。
ただ、ここから先が違いました。

Nさんは、「小さいお子さんを抱えている世帯の大黒柱が、そんなことではいけない」
と、なんとか旦那さんに危機意識を持って頂くため、Aさんにオムツと粉ミルクをお渡しする際に条件を提示しました。
つまり、支援の条件です。

「(要約)今回お届けした物は旦那さんに全部見せちゃダメ。支援してもらったと言って全部見せたらいくらでも支援してもらえると思っちゃうから。
小出しにして、何しろ旦那さんに子供のことも今後についてもまじめに考えてもらえる様に言い続けなさい。」と。

これ、中々言えないことです。
お届けする先の方々の状況をきちんと踏まえていないと到底言えることじゃありません。
地元だからこそ、外からじゃ見えない情報を知り得るからこそ出来る気遣い。

先日、NさんにAさんから連絡がはいりました。
旦那さんが、
「いつまでも物資もらって子供食わせて…こんなことじゃダメだな。
職業訓練校に通って資格を取って仕事を見つけてくる。」
と、先日訓練校に通い始めたとのこと。

もちろん支援物資を受け取ったことが全てじゃないかもしれません。
だけど、私たちが全国/全世界の支援者の方々からお預け頂く支援物資(想い)が、沿岸のとある家族の踏み出す新しい一歩のきっかけになったのなら、お預かりした想いに対する責任を果たせた一つの例として、是非皆さんに共有すべきエピソードの様な気がしたのです。
何より私は無条件に、とても、とても嬉しかったです。

SAVE IWATEは支援物資による復興支援を今後も続けていきます。
ゼロには出来ない現状が未だに其処此処に見え隠れしているからです。
ただ、規模は縮小していく必要があると思っています。
より効率的に、より効果的に少量をお届けするカタチに切り替えて行く必要があります。

地域の、個人の自立の妨げになると言われ始めた物資支援ですが、今日は自立を促す新しい物資支援のあり方のヒントを頂いた様な気がします。

情報提供:鈴木

配送報告@山田

山田町内4箇所に物資配送しました。 うち2か所での聞き取り。

1.あの日は家の前を流れている小さな川が、見たことのない溢れ方をしたので、学校裏の山へ逃げました。
津波は泥、がれき、プロパンガスボンベを運んで一階はすべて水に浸かりました。
畳は持ち上がり、内装もガラス窓もぜんぶダメ。家のまわりは流され、残った隣家ではご主人が亡くなりました。
水が引いた後、小魚が家の外壁に貼りついていました。
その後、ボランティアの人たちが50人は来てくれておかげで、一階の泥出しが済んだのです。

近くの避難所で生活したのは5月の連休まで。
電気、水道を早く引いてもらうよう、役場に何度も陳情しました。
と云うのもこのあたりに泥棒が出るようになり、無事だった2階で生活するためでした。
気味の悪い出来事です。

お風呂は自衛隊が準備してくれた共同風呂でした。いつも混んでいて暗かったけど、いい気分転換でした。

在宅になると、避難所にある物資は廻ってきません、情報もです。

いまは余震に敏感になって精神的に怯えてます。夜は恐怖を覚えます。
次に地震が来たらすぐ皆で逃げられるよう、車のガソリンはいつも満タンにしています。

ここには幽霊が出るんです。親の私には見えませんが、家にいると子どもが、
「ママ、腰の曲がったおばあさんがいるよ」
トイレから出てくると、
「ママ、男の人がトイレの中歩いてたよ」
あれだけの災害ですし、すぐそばで自衛隊の人たちが合掌しているのも見ました。
幽霊が出てもおかしくはないでしょう。
子どもは怖がってはいないので、そのままにしています。

2.地区の半分以上を津波が襲いました。
ここではまだ自治会は動いていません。女性は婦人会を通じて元気を取り戻し始めました。
この地区から出て行った人達、仮設住まいの人達に「婦人会だより」を送って連絡を取り合うようにしています。
男性はまとまりなく、弱っているようにみえます。

流された跡地に自宅再建を望み、地区に戻りたがっている人は何人かいます。
しかし高齢者の方には、時間、お金、方法がないのではないか。そう思っても、私たちにはなにも云えません。
せめて災害復興住宅が出来ればいいのですが。

婦人会では在宅ひきこもりを防ぐために「この指とまれ」というサークルを作り、月2回活動しています。
今日は17〜8人参加しています。

多くの船が流され、多くのフライ旗が家に残りました。フライ旗って大漁旗の事です。
縁起物ですからもう使うことはありません。新しい船に新しいフライ旗を誂えるのです。
残ったフライ旗を地区の皆さんに声掛けして、集めて、その生地で半纏を作ろうと計画しています。
にぎやかな柄だから、作って着るとたのしいでしょう。
皆で集まって作ろうと思います、作ってたのしもうと考えています。

聞き取り日 3/13     まとめ・文責:鈴木智太郎

配送報告@釜石・大槌

釜石・大槌5カ所に配送を行いました。

①まずは産直への配送です。
この産直はスタッフ3名で運営しています。そのスタッフの方にお話を伺いました。
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私の自宅は震災で室内に10箇所の亀裂が生じました。
壁は板を打ち付けているので継ぎ目が浮き上がり、貼ったクロスもダメになっています。
風呂場のタイルが割れるなどしましたが自分で張り替えて使っています。
基礎は数えてみると6箇所の亀裂があり、こればかりは自力で修理できません。
そのような状態でも行政の認定は「一部損壊」です。
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スタッフの一人は古民家を改装して住んでいたのですが、天井の太い梁が落ちたそうです。
もう一人は仮設住まいです、すべて流されたのです。

ここでは自宅が残っても出来る範囲の補修をして、かろうじて住める状態にして住んでいる、
そのような家がたくさんある、とのことでした。

②次は仮設住宅へ伺いました。
ここの仮設は高齢者の一人住まいが多く、心と体にダメージを受けた方を複数抱えているため、今後心配な状況です。

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・ケアの人は来ていますが、もう一歩踏み込みが足りない気がしている。
・自治体に指導のプロがいないのではないか。つまり、なにをしたらいいのか分からないのだろう。
・支援体制にちぐはぐな感じを覚える。
・沿岸各地を見てまわると、ここの仮設はまだ恵まれているほうで、ある仮設は悲惨だ。単独仮設は大変だと思う。
・そして皆新しい居住地を探している。内陸避難したひとはまだ裕福だと思う。
・自治体の計画は現実性に乏しく、あてにならない。だから住民の要望と噛み合っておらず、遅きに失している。
・このままでは地域が、人と人のつながりが、壊滅してしまうだろう。
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③次は、在宅の方へ配送しました。

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私はあの日、職場の窓から襲ってくる大津波をまともに見た。
もう逃げた逃げた、崖を両手両足で這い上がって逃げた。
今でも海岸を歩くとその時の恐怖心がよみがえる。それほどのショックだった。
私の自宅は津波の勢いが衰えて進みが止んだすぐの場所にあり、直接の被害はなかったけど、その後の生活が大変だった。
家が残ったから支援物資が廻ってこない。
電気と水道に不自由し、ガスはプロパンが使えたから夕飯は日が沈む前に済ませた。
私達の家から買い物に出かけると2〜3時間かかり、欲しいものに行列すると目の前で売り切れを伝えられたりした。
家が残ったため、地区の避難所の洗濯機は使わせてもらえない。1ヶ月はそんな生活だった。

家を流され避難所暮らしになった人の一部から、家のある人へ対しての差別が始まった。
避難所のみなさんで分けてもらおうと、私達は川の水で米を洗い、ガス炊飯でおにぎりをこしらえた。
それを手渡すと、あとで全部捨てられていたことがわかった。
自衛隊の炊き出しの人たちや役所からも強く注意されたようですが、支援は避難所のひとだけ、という考え方は直らなかったようだ。
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家が流された人だけが被災者ではないでしょう、とその方はおっしゃいました。
「なのに、今でも家のある人には炊き出しやイベントの連絡はありません。
このまま心のしこりが集落で残ってしまうのでしょうか。
残った家の補修や井戸のボーリングなどで、けっこうお金が掛かっているのが実のところです。
明るい兆しはまだ見えてこない気持ちでいます。」
もちろん、このお話はあくまで個人の方の体験に基づいたお話です。
各地域、すべての人々の間にこのようなすれ違いが生まれたとは思いませんが、
こういったことがおきたのも、また事実のようです。

④次は幼稚園への配送です。
幼稚園の先生にお話を伺いました。

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津波の翌々日になって園に戻ると、敷地に御遺体が6体そのままの状態でした。
その後復旧工事が進み、壊れた床暖房はドイツの教会の支援で使えるようになりました。
おかげで4月の始業式を迎えることが出来、5月下旬には園庭も元に戻りました。

あの日は近くの集会所に園児、先生あわせて17名が避難しました。
すぐに消防団の方がみえて山に避難するように云われ、移動しました。
そこにある一軒家の方の好意でみんなで食事をとる事もできました。
やがて山火事が起こり、近づいてくるというので山を下り近所の道場に避難場所を移したのです。
5日後に残った最後の園児さんを親御さんが迎えにいらっしゃいました。

あの地震の後、車で迎えに来た親御さんが同乗の祖母さんの強い言葉に急いでお子さんを乗せ、園をあとにしましたが、皆さん亡くなりました。親御さんのお腹の赤ちゃんも一緒に。

夏は虫がすごかったです。先生達がうちわでハエをはらいながら、園児に食事させました。
街が落ち着いてきてから、園児たちの間で「津波ごっこ」が流行りました。
ブロックを家に見立てて、お人形をまわりに置いて自分が体当たりするのです。
「死んだごっこ」というのもありました。
しかし私たちは園児の遊びのなかに入らず、津波、のひとことも一切云いませんでした。聞き流す感じで。

遊びはその後「入院退院ごっこ」「仮設ごっこ」と変化していきました。
今は、地震が来たら園で飼っている小動物をいっしょに仮設に連れて行く、と云ってくれる園児もいます。
子どもたちの気持ちは確実に変わり、明るくやさしくなっています。
思えば園児と楽しく笑って1年を過ごしました。
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⑤最後に、パン屋さんを営まれていた方のお話です。

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東京に長く住み、趣味でパンやケーキ作りを楽しみ、教室を開ける免許も取りました。
主人の実家のこの地に移住してからも手作りを続けて、近所の方にお分けしたり。
そのうちに口コミで人が集まってくれるようになって、予約販売の店舗に発展しました。

津波で家とレシピを失い、しばらくの間気力を失ったままの生活でした。
立ち直ったきっかけは、帰省した息子から赤いカーネーションをプレゼントされたから。
少しずつケーキ作りを再開し、食べてもらった相手の感謝に心が動いたのです。
おいしいパンとケーキで皆の役に立ちたい、そう思い今に続いています。

この仮設商店街への出店も皆さんとのつながりで実現しました。
材料はこだわって仕入れていますから高値という人もいますが、美味しさには換えられません。
そして自分の味を守り自信を持ってお客さんに味わってもらうには、店舗は小さいままでいいと考えています。
そして皆さんのおいしいの言葉が店舗を続けている原動力です。

この地域では全壊と家の残った人との間に苦痛があったけど、
あの時、食べ物を分かち合って近所の人たちとの絆が出来あがったのは、津波のおかげだとも云えるでしょう。
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聞き取り日 3/8     まとめ・文責:鈴木智太郎

『鍋の素』提供について。

番長の漆戸です。
現在、当団体には神戸物産さまよりお預かりしております鍋の素・三種類が計600箱ほどございます。(16パック/箱)
わたくしたちでもどンどンお渡しを進めておりますが、他の団体、被災者のみなさんなどでも欲しい方があればお声掛けください。

  • ちゃんこ鍋の素
  • 寄せ鍋の素
  • キムチ鍋の素

残念ながらわたくしたちの輸送能力の限界からご自身で運送手配を行っていただく必要はありますが、当方の在庫をお渡しできます。
よろしくお願いいたします。

※必要な方は sviwate@gmail.com まで、『鍋の素ニーズ』のタイトルでお知らせください。

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