東日本大震災 被災地支援チーム SAVE IWATE

2011年3月11日(金)14時46分頃、東日本大震災が発生しました。岩手県の三陸沿岸地域は甚大な被害を受けました。この災害に対し、民間レベルでできる支援活動に取り組みたいと考え、県内在住有志で「SAVE IWATE」を立ち上げました。

被災地見聞記

SAVE IWATE 顧問の向井清孝氏(元岩手工事事務所(現岩手河川国道事務所)所長が、被災地の視察に訪れました。顧問の中では唯一東京在住ですが岩手県とはご縁が深く「イーハトーヴの国土造り 大地と人と交流と」いう著書があります。

テント、寝袋、携帯コンロや食料、水まで持参、リュックは大きく膨らんでいました。報告書を頂きましたので、その一部をご紹介いたします。

被災地見聞記
                      向井 記

 あの日3月11日以降、テレビ、新聞、週刊誌、各種ネット、図書館の各種資料等からさまざまな情報を得つつ、被災者に心を痛めながら、何が起きたのか全体像の把握とともに、自分に何が出来るのか、を考えてきた。
  私の三陸沿岸現地視察の視点は、①極めて大きな津波に襲われた、が新聞報道に見るように千年に一度の規模の津波!本当かな?、②津波に襲われると、街は人々の生活はどうなるのか、③海岸堤防その他の防災施設はどうなったか?どんな役割を果たせたのか?④被災地の建物で避難に堪えうるのはどんな構造のものか、⑤この津波が再度訪れたとしてどんな街づくりをすれば人的被害を最小限にすることが可能か?といった事項である。この視点に連なる印象のみ、今回は報告したい。

  訪問できなかったが、今回、普代では津波が街を襲っていない、堤防を越えなかった、誰も亡くなっていない、という。その堤防は田老のそれと同じ構造とみえ、横幅も広い。違いは、田老のそれが海面から10メートルの高さなのに対し、普代のそれは15mの高さがあった。普代は、防災施設によって完璧に守られた数少ない事例であろう。
  海岸の堤防(防潮堤を含め)の多くが破壊された。地震によって亀裂が入ったりズレが生じたもの、また薄っぺらくて普段の波の飛散防止に役立つ程度のもの(実にさまざまな構造の堤防がある)は、津波の最初の衝撃にひとたまりもなかったであろう。津波の最初の衝撃に耐えたものとて、それを大きく越流した水はどっと裏側に落下し、洗掘されたものもあろう。堤防には海側に自由に車を通過させるための閘門があり、また海に流れ出る河川の河口には防潮水門もある。これらの門扉のほとんどは日ごろの訓練の賜物、津波襲来時には閉じられていたようだが、多くが破壊された。津波の引き潮には、内陸に浸入した水の流れがどこかに集中して洗掘が起き、これが原因で倒壊した堤防も多かろうと思う。防災施設の大半は、津波の衝撃力もしくは施設の洗掘によって破壊された、と見た。
  ギネス登録された釜石の湾口防波堤(水深63メートルの位置に海面上まで造られた)など、破壊されたが、釜石市への津波を軽減するのに貢献した、とも言われる。
  いずれにせよ、津波によって多くの生命と財産を失った。そして、津波はまた必ずやって来る。今後の街づくりに当たっては、家屋の高地移転と避難路確保、低地の有効な利用と避難法の確保が欠かせない。その他、配慮すべきことが多くあろう。山を削り安全な土地を造成する必要がある。そもそも県内の被災地は、緩傾斜地が少なく山が迫った海岸線がほとんどである(陸前高田などは趣を異にする)。その上、陸中海岸国立公園にも指定された風光明媚な地域であり、土地の改変にはさまざまな意見があろう。宮古や釜石には乱開発防止のための土地利用規制もあるらしい。人口減という今後の傾向の中、集中的な復興を進めるため、対象地域を多少は選定する必要があるかもしれない。被災した人達の意向の集約・理解をどのように得てゆくかも容易ではない。
  被害を受けた防災施設については、あまりに多いため、被害の把握自体が容易でなくその手続きも相当に簡易化され実施されるようである。単純な復旧でよい箇所もあろうが、今後の街づくりに繋がるものが探られなければならないと思う。街づくりの観点を中心に、今後ともSAVE IWATEに関わってゆきたい。

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